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国際シューベルトコンクール 第三話

それから、すんなりコンクールに向けて頑張れたかというとそうではなかった。
頭の中に、「もう受けても仕様がない・・」とか「どうせ受からない・・・」といった考えが常に混沌としてあった。
しかも課題曲の中で今まで演奏したことがあったのはソナタイ短調D537とショパン・ラフマニノフの練習曲だけで、他の曲は全て譜読みから!という状態だった。

5月の中旬にL先生に「シューベルトコンクールを受けようと思っているのですが・・」と話すと、

「無理です!まず、あと4ヶ月でこれだけの課題曲をこなすのは不可能だし、ソナタハ短調は短期間で仕上げられる曲ではありません!」ときっぱり言われた。

僕は11月の日本でのコンサートに最初からこのハ短調ソナタを弾く予定にしていたから、その前までに少なくとも人前でちゃんと弾いておきたかったし、コンクールを頑張ったらこのハ短調ソナタも自然に良い状態にもってくことができるだろう、と考えていた。だから、L先生にそう言われても、意識は常に“リサイタル”に向いていたし、とりあえずその前にあるコンクールまでに仕上げることを目標に頑張ってみることに決めた。
しかも練習して無駄な曲は何一つないし、他のシューベルトの作品も勉強できる良い機会だと思った。

練習を始めてからも、頭では「コンクール!コンクール!!」と考えないようにして、「いい音楽を奏でる」ことだけを念頭においていたお陰で、短期間だったのにもかかわらず割と落ち着いて作品に向かい合うことができた。それでも、コンクール開始一週間前までは「あ~あ、準備がまったくできていない。やっぱりコンクールに行くのは止めておこう。いいじゃないか、どうせリサイタルの為にがんばったことなんだから。。」と弱気にもなっていた。
どうしてもコンクールには行きたくなかったのだ。

一週間前のL先生のレッスンの後、僕は「やっぱり受けるのやめておこうと思うのですが・・・・。ちっとも準備ができていないと思うし。」と言うと、

ビックリしたように、

「へぇ~。貴方、とっても自信があるように思えたけれどねぇ。。私はいままで貴方を見てきて、これだけちゃんと準備ができていたことはかつてなかったわよ。」
それから、
「コンクールで演奏することを考えるのではなく、この素晴らしい音楽の中に溶け込みなさい。そして、素晴らしい音楽を演奏する悦びを味わいなさい。」とおっしゃった。

この言葉には僕も思わずジーンときてしまい、今まで忘れていたこと、特にコンクールというある意味自然に素直に音楽を奏でられない場で僕は今まで何を考え、何を思い演奏していたのか。。。
ドイツ語でWETTBEWERB(競争)を意味するこの“コンクール”という概念、それよりも先に、”音楽”の存在理由はその“競争”とはあまりにもかけ離れているではないか。一人の音楽家として音楽を奏でる根本的な理由を忘れかけていた僕にとってこのL先生からの言葉は天から舞い降りてきた教示に思えたのだった。

国際シューベルトコンクール 第二話

偶然とは・・・・。

4月の日記にも書いた「スタインウェイハウス」でのリサイタル。この演奏会の後、長い間、何を勉強しようか思い悩んでいた。

ふと、「そういえば、ろくにシューベルトを弾いたことがないな・・・」と思い、楽譜棚に置いてあるシューベルトの楽譜を片っ端から読み漁った。
「う~ん、これは長すぎるし、これもちょっとなぁ~・・・」なんて一人でブツブツ言いながらページをめくり続けていた。

何年も前になるが、ワイマールで内田光子のCDを試聴もせず購入したことがあった。そのころ、シューベルトはソナタ2曲と即興曲とあと数えるくらいしか弾いたことがなかったし、シューベルトには全く興味を示さなかった。だから自然に「シューベルトの音楽をもっと知ろう」とも思わなかったし、どちらかといえば「死ぬほど退屈な作曲家」(これは言い過ぎか!?)のイメージが常にあった。

ところが試聴もせず“清水の舞台から飛び降りる”勢いで買った内田光子のCD(だって高かったから・・・)は、今までの僕のシューベルトに対するイメージを払拭してくれた。曲は「ソナタニ長調D850」と「ソナタイ短調D784」で、このCDを実際聴かれた方も多いのではないだろうか?とくに「ソナタニ長調」はこのCDのお陰で、僕の最も好きなソナタになった。彼女の演奏はファンタジーに溢れ、音のパレットが実に豊富で、以外と!?正統派の演奏であった。

前置きが長かったが、この「ソナタニ長調D850」は勿論、この“次に何弾くか候補”の最有力候補であったことは言うまでもない。もう一つそれと双璧の候補だったのは「ソナタイ長調D959」であった。これは、シューベルトの曲では唯一、東京音大時代から好きな曲だった。今はもう亡くなったレナード・ホカンソン教授の演奏会で彼はこの素晴らしいソナタを気品に溢れ、消え行く音を最後まで慈しむように演奏された。

ただ、せっかく勉強するのだったら、それにL先生に習うということを考えると、もっと男性的な厳しい曲の方がいいんじゃないか?(注:L先生は女性です!)
言い換えれば先生の得意な傾向の曲の方が習う価値があるのではないか?と考えるようになった。一生、先生に習っていけるわけではないし、シューベルトのソナタのような“大曲”になると年間に学習できる数も限られている。今、この時点で上述の件を満たす作品は、「ソナタハ短調D958」だったのだ。

このソナタをすることに決めたのがもう5月になってからの事であった。
それから、しばらく経ったある日、先生から
「あの、ベルリン交響楽団とピアノ協奏曲ができるらしいけど、貴方弾きますか?」と電話が急にかかってきた。
僕:「あ、もちろんやります。こんな機会滅多にありませんから。」

先生:「でも、条件があって、モーツァルトの協奏曲ならいいらしいけれど、何が弾けますか?」

僕:「じゃあ、第21番!」と即答した。

この21番の協奏曲は以前、悔しい思いをして弾くことができなかった曲であった。やっとこの名曲を人前で演奏できる幸せ、それとなんと言ってもオーケストラとの共演がなによりも嬉しかった。

この以前の日記に書いたこの6月の「ベルリン交響楽団演奏会」がなければ僕は「シューベルトコンクール」に出場しようと思わなかっただろう。その頃、パソコンの机にずっと前にコンクール事務局から送られてきた“コンクール要綱”がそのままぽんと置いてあった。その時までほとんどというか、全く意識していなかった「シューベルトコンクール」が急に僕に接近してきたのだった。何気なく課題曲をチェックしていると、なんとこの協奏曲が本選での課題になっているではないか!!


 

つづく

国際シューベルトコンクール 第一話

なんだかまた長びきそうな予感がしますが、頑張ってご報告したいと思います〈笑)。
まずどこからお話しすればよいのか・・・。

あっ、そうそう、開催地!

この国際シューベルトコンクールはドイツのドルトムントという都市で2年に一回のペースで行われていて、世界的にも権威のあるコンクールとして知られています。亡くなられた園田高弘先生もコンクール審査員として携わっておられました。

ドルトムントという都市は、デュッセルドルフの北東約70kmに位置し、社会科の時間で習ったルール工業地帯にあって、工業都市のイメージを思い浮かべる人も多いかもしれない。
街を実際歩いた感じはとってもモダンな街という印象だった。また、サッカーの強豪チーム「ボルシア・ドルトムント」の本拠地でもあり、ものすごく大きなスタジアムがあるらしい。ドルトムントはその昔、ビールの街としても有名だったが、そのビール会社は倒産してしまい今は建物だけが当時のまま残っている。

実を言うと、僕は去年のコンクールで「もうコンクールは絶対受けない!!」と決めていたのだ。理由はいくつでもある。
まず、年齢制限ぎりぎりの歳であること、それによりやはり審査が厳しくなるという現実等々、挙げだしたらキリがないが、一番の理由は“コンクールに疲れた”ことだった。

去年は元旦に「今年はコンクールを受けるだけ受けてやろう!」と決め、その結果、ほとんどの全てのコンクールで満足いく結果が出せた。
しかし、満足できたのは「審査結果」であり「演奏」ではなかった。いちいちここに書くことでもないが、コンクールというのは、体力・気力・精神力ともにかなり消耗する。(ついでにお金も!)

“コンクールの意義”など、ここでは問わないが、少なくとも僕の中では、“コンクール参加”は自分を成長させてくれた貴重な体験であったことには間違いない。

僕はもともと「のんびりや」なので、何か目標があって取り掛からないと何でも後回しにしてしまう性質なのだ。僕にとって「コンクール」とは自分を頑張らせる活性剤であり、具体的な目標を立てることができる重要な役割を担っていた。

しかし、去年でもうコンクール参加に終止符を打っておきながら、「国際シューベルトコンクール」を受けることになったのは、実は偶然が重なってのことだったのだ。

つづく

阪神タイガース

やりましたね~~!阪神!!六甲おろしが甲子園に響きわたったことでしょう。僕もその場に居合わせ、ファンと一緒に大声で歌いたかった~!!本当にオメデトウ!!選手の皆さん!僕は君たちが大好きだ~~!!

阪神が好きになったのは、確か小学校5年生のとき。

とっても小さな岡山県営野球場へ父親と「阪神VS広島」を見にいってからだ。

当時、阪神には今野球解説員をしている小林という横投げのピッチャーがいて、彼の繰り出す投法に小学生の僕は酔いしれたのだった。また、時を同じくして広島にはこれまた世紀の名投手・大野がいて、一大広島時代を着築いた立役者的な存在であった。

その頃、僕の周りの友達はやはり巨人ファンが多く(地方だからTVは巨人戦がほとんど)、そんな巨人ファンを横目に僕は、小林を始め、バース・掛布・岡田の虜になってしまい、学校で巨人ファンのヤツに「阪神ファンなんてキチガイじゃ~~!」となじなれようと、「フンっ。巨人ファンなんてどうせテレビで好きになった単純なやつらで、オリジナリティなさすぎ!」と反抗していた。

それから21年ぶりの優勝を決めた85年の幻の三者連続ホームラン。しかも相手は巨人!
打席のバースは真ん中に入ってきた槙原の初球をとらえバックスクリーンへ。
続く打席は四番・掛布。槙原の3球目を、これもセンターバックスクリーンへ叩き込み、とどめは 五番・岡田で槙原の2球目を、またしてもバックスクリーンへ運んだ。たった6球の間の出来事だった。バースが、掛布が、岡田が三人ともバックスクリーン。

奇跡が起こった・・・。

そう、阪神ファンにとって巨人相手にこんな嬉しいことはないのだ。(巨人ファンの皆さん申し訳ない)

こんな光景をテレビで目の当たりにしたらファンになるに決まっている。実際、この“幻の三発!”で巨人ファンから阪神ファンになった友達もいたくらい。

それから、長い間タイガースは成績低迷に苦しみ、彼らのことはそれでも好きだったが、「やっぱり今年もCクラスかぁ」「やっぱり負けたか・・・」と”牙の抜けたトラ”を見ているのが辛かった。

そしてここ最近の再びの黄金期!いや~浮気しなくてよかった。ず~っと阪神一筋ですから。

そんな僕も小学校のコロ、帽子には大きく“C”の付いた「広島カープ」の真っ赤な帽子に、おじいちゃんを座らせ、「大野っ!」といって無理にサウスフォーでピッチングしていたのだが・・・・。

「大野かっこいい~~!」

終わり











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