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DEUTSCH

誰かと思えば

こないだ学校でシューベルトを練習していた時のこと。

部分練習をしていたら、ドアをコンコンとノックする音。

「ん!?」と思って手を休めるとガチャッと誰かが扉を開けた。
そこに立っていたのはベルリンのもう一つの音楽大学“ハンスアイスラー”に通うピアノのS君だった。彼とはたま~にばったりどこかで会ったりするのだが、何故僕をわざわざ訪問してきたのか不思議がってると、突然誰かが、

「こんにちわ~っ」

誰だ!?

「あ”~~~っ」

ビックリして眠気が一気に覚めた。

そこにいたのは「きっちゃん」の愛称でみんなに親しまれているK君だったのだ。

K君とは大昔!?、何年も前の日本音楽コンクールで苦楽!?を共にし、彼はその時の優勝者で、半年後の東京芸術劇場での「優勝者記念コンサート」で演奏したシューマンの「ピアノ協奏曲」は何年も経過した今でも強く印象に残っている。

当時、特に本選での僕は、周りからのプレッシャーと「なんとしてでも!」という間違った意気込みが災いし、音楽を奏でる悦びを感じることもできず、不満足な結果に終わってしまった。よく言う“若気の至り”ピアノでラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を弾き飛ばし、音楽を味わうこともなく終わってしまった。

一方の彼は全く僕とは正反対で、一音一音味わいつつも、よく吟味して音を出し、音楽に対する愛情がそこに溢れ、聴くものを幸せにする演奏であった。

かつてのライバルも今は良い仲間で、コンクール後もバッタリ何度かここヨーロッパでも出会った。

彼はコンクール後、僕より一年後に渡欧し、現在も住居をパリに構え勉強している。今回は彼の日本での先生がライプツィッヒで講習会をされていて、彼のところに訪問するついでに、観光でベルリンに遊びに来たとのことだった。

「長話もここではなんだから、明日お茶かご飯でも行く?」

「じゃあ、お昼ご飯でも!」

ということで、S君夫妻?(ごめんね。僕らはこう呼んでます・・・)とK君と共に日本料理の名店「ささや」に行く事に。

S君たちとも久しぶりに会話ができて、K君ともたっぷりお話しし、あっという間の2時間であった。聞くと、K君は僕のHPの愛読者である事が判明!ちょっと恥ずかしかったけど、光栄でございます。K君またメールくれ!!

きっとこれからも刺激をし合える良い仲間であり続けられるだろうK君と、また近いうちの再会を誓い、彼はS君夫妻と僕が日記で書いたベルリンのホットなスポット「ハッケシャーマルクト」へと観光に出かけていったのでした。

ベルリンの顔

世の中は今“夏休暇”真っ只中。

昨日、ベルリンの観光スポットの一つである「ハッケシャーマルクト」の周辺も観光客でごった返していた。

おそらくベルリンで今もっとも熱いエリアである「ハッケシャーマルクト」は旧東ベルリン地区にある。

ここの一番の観光スポットは「ハッケシェヘーフェ」とよばれる、建物と建物の間に8つもの中庭がつづく、ドイツでも最大級の“ホフ”(中庭)である。

この中庭には、バー、美術館、映画館、書店、骨董店、ブティックなどがひしめき合い、様々な文化が共存し、観光地化された今もなお、ベルリンの最先端、魅力溢れるスポットとして、世界中からの観光客を魅了している。

旧東ベルリン地区は、統一前、たしかに“灰色の壁”だらけで間違いなく暗くジメジメしたエリアだったのだろう。
お世辞にも「創造的」と言えない様な日用雑貨、電気製品、あと愛嬌はあるけどやはり共産主義的な匂いのする名車「トラヴィ」によって人々は支配され、街もそれによってその生活の延長上に形成されていた。

東西統一後の東地区は、建物の壁を新しくキレイな色に塗り直したり、新しく建て直したり、まだこの世に出る前の才能たちの集まる、予測不能のクリエイターな地区だった。

一方、西の横綱「クーダム地区」は、統一前後も、言ってしまえばガチガチの固まってしまっている地区で、もうこれから先も変化は期待できない地区であるし、人々も“不変”を望んでいるに違いない。
出来てしまっているものを新しく様変わりさせるのは至難の業であるが、何もないところに新しい風を吹き込み創造してくのは、それよりずっと簡単なはずである。

東西統一後15年の歳月が流れ、まだまだこの旧東地区は発展中で、日に日にクリエイター達が新しい顔をどんどん発表し、人々をアッと驚かせる。

僕も新しい店や建物を見つけては驚き、彼らのセンスには脱帽するばかりだ。

髪の毛

今日は今学期最後のレッスンでした。

今学期は割りと重要な本番があったので先生には沢山レッスンしていただきました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

去年はコンクールに行っていたり、コンサートで国外に出かけて行っていたりして、殆どレッスンしてもらってなかったので、先生には、

「私はあなたを100年間見かけなかったわよ!」
(注:ドイツ的なギャグ)といわれる始末・・・・。

我がクラスの毎月やっている発表会にも去年は一回も出演しなかった、いや、その時に限ってベルリンに居なかったから出演できなかったのだ。

久しぶりにレッスンを受けると、また毎週受けているときと違って、先生の指摘が新鮮に感じ、集中力も普段より増して、とても実りの多いレッスンになることが多い。

話変わって、この連日の暑さに閉口気味だったので、昨日、伸びきっていた髪の毛を約半年ぶりに切りに出かけた。ベルリンには日本人が多く住んでいることもあり、日本人の経営している美容院がある。そこで実に8年ぶりくらいに思い切ってショートカットにした。久しぶりのショートは手入れも簡単だし、実に気持ちがいい!!

今日はレッスンだったので、いつものようにレッスン部屋に入ると、まだ生徒が演奏しているのにもかかわらず開口一番、

「あなた誰!?」

また先生のボケ炸裂である。続けて、

「あなた、なにしたんですか!!??」

「あなたの芸術家精神はどこにいったのですか!!??」

僕はその言い方とこのショートカットがそんなに重要な問題なのかと思うと不思議で可笑しくてたまらなく噴出してしまった。そこにいたロシア人の女の子タンニャでさえも、

(ああ、こんなに短く切ってしまって・・・・あ~あ・・・)てな調子で僕の頭をまじまじと見ている。 

「わたしゃ、ピアニストがこんな短髪にするのは大嫌い!!もう・・・・・・」

2年ほど前も僕がレッスンを受けているときに実は同じ事が起こっていた。同じクラスの日本人M君である。

彼が部屋に入ってくるや否や、先生は、
「あ”ぁ”ぁ”ぁ”~~~~~なんですかその頭!!!!」
「わたしゃ、ピアニストがそんな短髪にするのは大嫌い!!!」

M君はそれでもなかなか鋭い突っ込みを返した。

「いやぁ、ラフマニノフも短い髪だったし、別にいいんじゃないですか?」
さすがM君であった。彼の勝利!

2年の歳月を経て歴史は二度繰返された。


髪の毛にまつわる面白い身の上話があるのでご紹介しよう。

あれは僕がドイツにやってきて、正確に言うと、ワイマールに住み始めて10ヶ月ほど経過した頃だっただろうか。

10ヶ月間も髪の毛を伸び放題にしていた僕は、とうとう我慢も限界に達し、意を決してワイマールのとある美容院で切ってもらうことにした。

どうして“意を決し”なければならなかったというと、ドイツ人の美容師の方々の大半は不器用で、しかも、日本人の女性は“日本人形カット”(超真っ直ぐ切りそろえる!!よく言えば楠田恵理子風)、日本人男性はフィリピンかタイでオートバイを乗り回している“悪がきアジアンカット”(言葉で説明できない・・・。ほら、あのカットですよ!!あの!!)しか知らないのから、よほどの覚悟を決めとかないと行こうに行けない。

これがどういうことか想像していただけるだろうか?

例えば日本で流行っている、女の子だったら「シャギーカット」とか男の子だったら「無造作ヘア」とかは、彼らにとっては、そんなもんなんですか状態で、ただひたすらに“切りそろえて”いく。まあ、欧米人の髪の毛と日本人の髪の毛は全く異質のものだから無理もないが、それでも、日本人の美容師さんたちは外国人の髪の毛を器用にオシャレに切っていくではないか。見習え~~!!

そうそう、話が逸れてしまったが、いつものようにその日もMENSAで昼食を食べ、コーヒーをすすっていた。いつものようにクラリネットのS君がいて、

S君:「俺もこないだそこで切ったんよ。ほら。」
僕:「これだったら悪くないじゃん!」
S君:「これから一緒に行って美容師に説明してあげる。」
僕:「それなら安心安心。。」

これならと思い、一緒に美容院に出かけ、説明できない僕に代わり、彼は説明してくれた。
どうやら美容師のおばさんも「ふむふむ」うなずいている。後はお任せするしかない。

S君には「後でそっちに練習に行くからまた後でね。」と別れを告げ、彼は練習へと向かっていった。

いよいよ切り始まった。僕はじっと美容師の動きに注意し観察していたが、後ろの方がどのようになっているか前の鏡じゃ見えりゃしない。前も両サイドもなんとなく重たいような、膨れているような。。(う~~ん、まあ、こんなもんか。)と言い聞かせ、心を落ち着かせた。さて出来上がり、いざ自分のヘアスタイルを観て見ると

「・・・・・・・・・!!!!!」

言葉にならない・・・・・。

「俺のもみ上げは~~~~~~~~!!!!!!!」

「どうしてこのご時世にテクノカットなんだぁぁぁぁぁ!!!!!」「

これじゃフィリピンのオートバイ少年と一緒じゃないかぁぁぁぁ!!!」などなど。。。おかしさを超えて、悲しくなった。

そこで美容師の人に抗議、もしくは「ここもうちょっと軽くしてもらえませんか?」なんて注文できたらな・・・・・・。

語学は大切です!!

学校の練習場所まで歩いた。約束どおり彼に“出来上がり”を見せるために。

いつも美しいゲーテ公園もこのときばかりは意地悪に見えた。木々もこのおかしなヘアスタイルを笑っているように感じ、流れる川のせせらぎの音でさえ僕を笑っているように聴こえた。

約束どおりS君と丁度そこにいたAちゃんに“ナンプラーやコリアンダーの似合うこのアジア風屋台髪”を見せると彼らはしばらくビックリして無言になり、やがて泣き笑いをしたのだった。僕も彼らにつられて涙が出た。

僕の場合は笑い涙じゃなく、単に自分自身があまりにも惨めだったからだが。


モーツァルト嫌い!?(パート2 )

コンサート前、普段かなりナーヴァスになる僕も今回ばかりは比較的リラックスしていた。某ピアニストもご自身のホームページに書かれていたが、「ピアノ協奏曲はデザートのようなもの・・・」だそうで、僕もこれには大いにうなずいた。

デザートというのはいつでもワクワクするし、どんなにお腹がいっぱいでも食べれてしまう。
大体普通は、一人ぼっちの舞台で寂しい思いをしているピアニストだが、ピアノ協奏曲のときは大勢の人たちが舞台にいて、「ああ今日僕は一人じゃないんだ!」と、皆に守られている感じがして、心細さを感じることはない。

一人のソロの時と比べ、ピアノ協奏曲は演奏後の充実感が違う。もちろん、上手くいかなかった時は、ソロの時以上に落胆してしまうのだが、それでも皆で一緒になり一丸となって共同で音楽を創造していくということは、感動にほかならない。

ピアノ協奏曲というのは、管楽器のソロの旋律に答えたり、チェロの伴奏を請け負ったり、またオーケストラの大合奏の中に溶け込んだり、時にはカデンツァでオーケストラを待たせてピアノソロを弾いてみたり、実に様々な要素が存在する。
モーツァルトのピアノ協奏曲は比較的オーケストラの編成が小さめで、大きな室内楽をやっているような感じなのだが、でもそこは“ピアノ協奏曲”である以上、ピアノが主役にならなくてはいけない。

だからといってラフマニノフやチャイコフスキーばりの覇音はどこにも必要ない。だから、一つ一つの音のクオリティーが顕著に問われるのだ。

前日記でも触れたが、誤魔化しが全く通用しないモーツァルトはある意味、全ての協奏曲のなかで(僕にとっては)一番演奏するのが困難である。

今回の協奏曲でのコンセプトは“オペラ作曲家としてもモーツァルト”で、オペラの各場面と協奏曲の中の部分を音楽的に照合しながら、例えば「ドン・ジョバンニ」のこの場面、「後宮からの逃走」のあの場面とか、ベルリンに来て沢山オペラを鑑賞したお陰で、具体的にイメージが湧き、音楽に当てはめるのもそう難しい作業ではなかった。

だから今回の演奏会を聴かれてた方々は僕の演奏からはきっと軽やかで、清清しく、純粋無垢なモーツァルトは聴こえなかったであろう。別にそういう演奏解釈を否定する気はないが、僕がモーツァルトのピアノ曲を好きになれない理由がそこにある。

この頻繁にピアノ曲の演奏で見受けられる、軽やかでさわやかで、純粋無垢な少年のようなモーツァルトが僕はどうしても受け入れる事が出来ない。今回の初モーツァルト演奏で得た収穫は計り知れず、失敗した箇所もあったが、なんと言っても、今まで全く曖昧だった彼のピアノ音楽のイメージを根本から考え直す良いきっかけになったのは言うまでもない。
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