時計は午前2時をまわっていた。もうかれこれ5時間くらい外でベンチに座り、じっとしている。
4人のでっかい男たちが、体と体を寄せ合って互いに体温を吸収しあい、寒さに耐えている。
相変わらず監督Aの指示は細かく、それが完璧に出来るまで何度も撮り直しが行われた。やっと撮影が終わり、時計を見るとすでに午前4時。よく耐えたなぁ。
一同、疲れ切った顔でお互いに挨拶を交わし、それぞれ車に乗り解散した。
ところが、撮影はこれで終わりではなかったのだ!
翌日、またAから電話がかかってきて、
A:「あの映画の残りを撮りたいから、またよろしく!」
僕:「もう、終わったんじゃないの?」
A:「朝のシーンは、朝に撮らないと撮れないから、早朝撮影をする。」
(そんな話聞いてないよ~~。「すぐ終わるから・・・」って最初言ってたクセに!!調子良過ぎ!)
などと今更思っても、心優しい僕は、もちろん「はい。はい。」言って次の日曜の朝6時にお迎えがくることを承諾した(単に断わり方を知らなかっただけだが。)。
朝の撮影は思ったほど長くなく、2時間ほどで終了し、僕は念を押して「もう、撮影はないよね?ないよね?ないあるか?」みたいに何度も尋ねたが、監督Aは「ありがとう。もう終わりです。」
(やった~!これで終わった~!)
と思ったのもつかの間!!、数日後、MENSAで監督Aに出会い、
A:「本当に申し訳ないんだけど、日本のラジオ局だけ受信できなかったので、君がアナウンサーになって録音してくれない?」
僕:「アナウンサー??」
A:「そう。例えばニュースで、最初にアナウンサーが挨拶するでしょ?それとか・・・・」
僕:「・・・・・・・・。」
A:「じゃあ、あさっての2時にここで!」
(まだなにかあるのかよ~~!お前は調子良子ちゃんなんだよっ。)
心優しい、断わり方を知らない僕は「はい。はい。」言って、またAの思う壺であった。
次回はいよいよ最終回!(いつもすみません。引っ張って・・・)
ワイマールの想い出(映画編 パート4)
吹雪の舞う無人駅のホームはそれはそれは寒かった。
寂しげな景色が寒さを余計に倍増させる。
前にAから「スーツを着てきて」と言われていたのだが、スーツだけで耐えられるような寒さではなかった。なにしろ、マイナス17度!である。
あまりの寒さに顔はつっぱって痛いし、体中震えが止らない。それでもここまで来てしまった以上、撮影が終わらない事には帰ることも出来ない。
スーツだけでは寒さに耐えられないので、その上にコートを着て、鼻水をすすりながらひたすらこの撮影が早く終わってくれるのを祈った。
駅のホームにベンチがあり、そこに我々出演者4名が座った。
すっかり忘れていたが、この映画のタイトルはドイツ語で「DURCHFAHRT」。
日本語に訳すと「通過」、この場合で言うと「通過列車」の意味であろうか。
この映画のあらすじは、お互い何の関係もない4人の男が一つのベンチに腰掛け、それぞれに考え事をしながらひたすら電車が来るのを待っている、というもので、4人の職業はそれぞれ、
イギリス人=ミュージシャン(ワイマール建築大学で英語を教えるイギリス人)、
ロシア人=労働者(ドイツ人の大学で働いている用務員のおじさんが“ロシア人に似ている”という理由だけでロシア人に扮装させられた。更にロシアンハットをかぶってどこから見てもロシア人!)、
ペルー人=ペルーからやって来た俳優(本当にワイマール宮廷劇場のペルー人役者)、そして、
日本人=日本から出張でやって来た銀行員(単に断われなかった、ワイマール音楽大学の可哀想なピアノ科学生)であった。
このように国籍も職業も全く違う4人が駅のホームのベンチに腰掛けているのだ。このような状況は日常生活の中でも十分考えられなくもないではないか。
4人の唯一の共通点とは「電車を待つ事」それだけであった。お互いに会話は交わさない。けれど、お互いがお互いの目的、すなわち「電車に乗って移動する事」を共有しているのだ。
前にも書いたとおり、この映画は「無声映画」であるので、台詞のない分、顔の表情や仕種で意思を伝えなくてはいけない。
監督Aは我々に色々な指示を出してきた。例えば、
「は~~い。今度は頬杖ついて退屈そうにしてくださ~い。」
とか、
「僕が合図出したら全員上を見上げてくださ~~い」
とか、
「紙を丸めて、地面になげてくださ~~い」などなど。
我々4人の“悲劇”役者達は演技をしながら、寒さに震えながら、それぞれ同じ事を考えていたに違いない。
それは多分、
「早く家に帰りたいよ~(泣)〈叫)。」
だっただろう。
間違いなく、これが我々の“共通点”であった。もう一度繰り返すが、
≪マイナス17度≫
である・・・。
<つづく>
寂しげな景色が寒さを余計に倍増させる。
前にAから「スーツを着てきて」と言われていたのだが、スーツだけで耐えられるような寒さではなかった。なにしろ、マイナス17度!である。
あまりの寒さに顔はつっぱって痛いし、体中震えが止らない。それでもここまで来てしまった以上、撮影が終わらない事には帰ることも出来ない。
スーツだけでは寒さに耐えられないので、その上にコートを着て、鼻水をすすりながらひたすらこの撮影が早く終わってくれるのを祈った。
駅のホームにベンチがあり、そこに我々出演者4名が座った。
すっかり忘れていたが、この映画のタイトルはドイツ語で「DURCHFAHRT」。
日本語に訳すと「通過」、この場合で言うと「通過列車」の意味であろうか。
この映画のあらすじは、お互い何の関係もない4人の男が一つのベンチに腰掛け、それぞれに考え事をしながらひたすら電車が来るのを待っている、というもので、4人の職業はそれぞれ、
イギリス人=ミュージシャン(ワイマール建築大学で英語を教えるイギリス人)、
ロシア人=労働者(ドイツ人の大学で働いている用務員のおじさんが“ロシア人に似ている”という理由だけでロシア人に扮装させられた。更にロシアンハットをかぶってどこから見てもロシア人!)、
ペルー人=ペルーからやって来た俳優(本当にワイマール宮廷劇場のペルー人役者)、そして、
日本人=日本から出張でやって来た銀行員(単に断われなかった、ワイマール音楽大学の可哀想なピアノ科学生)であった。
このように国籍も職業も全く違う4人が駅のホームのベンチに腰掛けているのだ。このような状況は日常生活の中でも十分考えられなくもないではないか。
4人の唯一の共通点とは「電車を待つ事」それだけであった。お互いに会話は交わさない。けれど、お互いがお互いの目的、すなわち「電車に乗って移動する事」を共有しているのだ。
前にも書いたとおり、この映画は「無声映画」であるので、台詞のない分、顔の表情や仕種で意思を伝えなくてはいけない。
監督Aは我々に色々な指示を出してきた。例えば、
「は~~い。今度は頬杖ついて退屈そうにしてくださ~い。」
とか、
「僕が合図出したら全員上を見上げてくださ~~い」
とか、
「紙を丸めて、地面になげてくださ~~い」などなど。
我々4人の“悲劇”役者達は演技をしながら、寒さに震えながら、それぞれ同じ事を考えていたに違いない。
それは多分、
「早く家に帰りたいよ~(泣)〈叫)。」
だっただろう。
間違いなく、これが我々の“共通点”であった。もう一度繰り返すが、
≪マイナス17度≫
である・・・。
<つづく>
ワイマールの想い出(映画編 パート3)
当時の僕はMENSAでの“日本語環境”に順応してしまっていて、ドイツ人と会話することは日本語がペラペラのドイツ人B君と“日本語”で会話する以外、ほとんど考えられない状況にあった。
「ドイツ語が出来たらどんなに楽しいだろう。」、「いいなー。あの人あんなに楽しそうにドイツ人と会話ができて・・・」と思っていたのにもかかわらず、語学はほったらかしであった。
だが、心優しい”僕は(単に断わり方を知らずに“はい、はい”言っていただけだが・・・)快く!?彼の申し出を受け入れてしまった。もう、うなずいてしまったら後の祭り・・・。Aはそれから、「そんなに長くないから。すぐ終わるよ。」と言って、ひとまず僕を安心させ、電話を切った。
それから2ヶ月ほど経過し、いよいよ撮影当日を迎えた。夜6時ごろお迎えが家に来て、撮影場所まで連れて行かれた。その車には、同じく彼の依頼を断われず、僕と同じ運命を辿るであろう英国人も同乗していた。彼はとなりの運転手とペラペラのドイツ語で喋り捲っていて、僕は後部座席で静かに外の寂しい雪景色を見ていた。しかしそれにしても寒かった。
撮影場所は、ワイマールから車を1時間ほど走らせた、とある田舎町の無人駅であった。駅の真向かいにある居酒屋で、他の出演者と撮影のお手伝いする人たちに出会った。
軽く食事を済ませた後、監督のAがなにやら皆に向かって説明し始めた。その時まで僕は“日本人銀行員”という役をやることしか知らされていなかったので、一体何をこんな無人駅でするんだろう?どんなストーリーなのだろう?僕の頭の中は??だらけだった。
Aがストーリーを説明し、コンセプトを説明し、それから配役を説明していった。どうやら“無声映画”で台詞はないらしい・・。助かった・・・・。
配役は、僕=日本から出張に来た銀行員、英国人=ミュージシャン、ペルー人=ペルーからやってきた俳優、ドイツ人=ロシア人労働者!?(単にロシア人に似てるからという理由で。)ということだった。
このバラバラの4人がどのようにして絡み合うのか?しかも台詞もなく・・。不思議だ・・・。
そうして、皆そろって雪の舞う極寒の無人駅のホームへと向かっていった。
<つづく>
「ドイツ語が出来たらどんなに楽しいだろう。」、「いいなー。あの人あんなに楽しそうにドイツ人と会話ができて・・・」と思っていたのにもかかわらず、語学はほったらかしであった。
だが、心優しい”僕は(単に断わり方を知らずに“はい、はい”言っていただけだが・・・)快く!?彼の申し出を受け入れてしまった。もう、うなずいてしまったら後の祭り・・・。Aはそれから、「そんなに長くないから。すぐ終わるよ。」と言って、ひとまず僕を安心させ、電話を切った。
それから2ヶ月ほど経過し、いよいよ撮影当日を迎えた。夜6時ごろお迎えが家に来て、撮影場所まで連れて行かれた。その車には、同じく彼の依頼を断われず、僕と同じ運命を辿るであろう英国人も同乗していた。彼はとなりの運転手とペラペラのドイツ語で喋り捲っていて、僕は後部座席で静かに外の寂しい雪景色を見ていた。しかしそれにしても寒かった。
撮影場所は、ワイマールから車を1時間ほど走らせた、とある田舎町の無人駅であった。駅の真向かいにある居酒屋で、他の出演者と撮影のお手伝いする人たちに出会った。
軽く食事を済ませた後、監督のAがなにやら皆に向かって説明し始めた。その時まで僕は“日本人銀行員”という役をやることしか知らされていなかったので、一体何をこんな無人駅でするんだろう?どんなストーリーなのだろう?僕の頭の中は??だらけだった。
Aがストーリーを説明し、コンセプトを説明し、それから配役を説明していった。どうやら“無声映画”で台詞はないらしい・・。助かった・・・・。
配役は、僕=日本から出張に来た銀行員、英国人=ミュージシャン、ペルー人=ペルーからやってきた俳優、ドイツ人=ロシア人労働者!?(単にロシア人に似てるからという理由で。)ということだった。
このバラバラの4人がどのようにして絡み合うのか?しかも台詞もなく・・。不思議だ・・・。
そうして、皆そろって雪の舞う極寒の無人駅のホームへと向かっていった。
<つづく>
ワイマールの想い出(映画編 パート2)
いつものようにコーヒーをすすっていると、突然ドイツ人の髪の長い男に声をかけられた。
「あの~、僕はバウハウス・ウニ(バウハウス建築大学)の学生で、今度の卒業制作で短編映画を撮影しないといけないんだ。それで、一人日本人の男性を捜しているんだけど、35歳くらいの人で知っている人いない?」
「どんな役をするの?」
「銀行員。」
とまあ、こんな感じで話が進んだ。もちろん、この時点ではそのドイツ人(以下、Aとする)は、僕からその“役”に見合った日本人を紹介してもらうのが目的で、僕に話しかけてきたわけだ。
「うん・・・・。わかった。捜してみるよ。」と僕は言い、彼は、
「ありがとう。また電話する。」と言ってその場を去っていった。
“日本語の環境”の中、日本語ばかりしゃべっていると、やはり、とっさにドイツ語でしゃべりかけられても、頭が混乱して応答に困ってしまう。
しかも、その頃の僕のドイツ語力といったら、2歳児のドイツ人の子供の方がはるかにしゃべれるほどのレベルであったので、ドイツ人がいきなりそうやって話しかけられただけで赤面してしまい、しどろもどろになってしまうのが常だった。
たとえそのような語学力であっても、スーパーで買い物は出来るし、学校でレッスンを受けられるし(ただし、込み入った話をされるとお手上げだが・・)、別にこれといって、不自由を感じることもなく生活はできてしまう。
その頃の僕も、“なるべくドイツ語を使わない生活”をモットーに、“日本人同士お互い手と手を取り合い頑張ろう!”状態で生活していたのだった。
数日たち、例のAから電話がかかってきた。
電話というのは嫌なもので、タダでさえしどろもどろのドイツ語が余計拍車をかけてしゃべれなくなる。
多くの外国人が同じ悩みを抱えていると思うが、外国語は面と向かってするほうが、見えない相手と会話するより、精神的に落ち着いて出来る。
それに、Aからの電話がかかってくるまで、こないだの話の事をすっかり忘れてしまっていて、かなり戸惑ってしまった。
「こないだの話なんだど・・・・・。誰かいた?」
「いるんだけど、その人は忙しくて出来ない。ごめんなさい。」
最初にAからMENSAで話しかけられたとき、とっさに浮かんだ日本人Iさんがいた。だが、彼はとても忙しくしていたし、どうせ話しても無駄と思い、その時点で諦めていた。
「それじゃ・・・・」と僕が電話を切ろうとしたとき、
「じゃ、君がやってよ!」とA。
「は?なに?」と日本語が飛び出しそうな勢いでビックリしてしまった。
<つづく>
「あの~、僕はバウハウス・ウニ(バウハウス建築大学)の学生で、今度の卒業制作で短編映画を撮影しないといけないんだ。それで、一人日本人の男性を捜しているんだけど、35歳くらいの人で知っている人いない?」
「どんな役をするの?」
「銀行員。」
とまあ、こんな感じで話が進んだ。もちろん、この時点ではそのドイツ人(以下、Aとする)は、僕からその“役”に見合った日本人を紹介してもらうのが目的で、僕に話しかけてきたわけだ。
「うん・・・・。わかった。捜してみるよ。」と僕は言い、彼は、
「ありがとう。また電話する。」と言ってその場を去っていった。
“日本語の環境”の中、日本語ばかりしゃべっていると、やはり、とっさにドイツ語でしゃべりかけられても、頭が混乱して応答に困ってしまう。
しかも、その頃の僕のドイツ語力といったら、2歳児のドイツ人の子供の方がはるかにしゃべれるほどのレベルであったので、ドイツ人がいきなりそうやって話しかけられただけで赤面してしまい、しどろもどろになってしまうのが常だった。
たとえそのような語学力であっても、スーパーで買い物は出来るし、学校でレッスンを受けられるし(ただし、込み入った話をされるとお手上げだが・・)、別にこれといって、不自由を感じることもなく生活はできてしまう。
その頃の僕も、“なるべくドイツ語を使わない生活”をモットーに、“日本人同士お互い手と手を取り合い頑張ろう!”状態で生活していたのだった。
数日たち、例のAから電話がかかってきた。
電話というのは嫌なもので、タダでさえしどろもどろのドイツ語が余計拍車をかけてしゃべれなくなる。
多くの外国人が同じ悩みを抱えていると思うが、外国語は面と向かってするほうが、見えない相手と会話するより、精神的に落ち着いて出来る。
それに、Aからの電話がかかってくるまで、こないだの話の事をすっかり忘れてしまっていて、かなり戸惑ってしまった。
「こないだの話なんだど・・・・・。誰かいた?」
「いるんだけど、その人は忙しくて出来ない。ごめんなさい。」
最初にAからMENSAで話しかけられたとき、とっさに浮かんだ日本人Iさんがいた。だが、彼はとても忙しくしていたし、どうせ話しても無駄と思い、その時点で諦めていた。
「それじゃ・・・・」と僕が電話を切ろうとしたとき、
「じゃ、君がやってよ!」とA。
「は?なに?」と日本語が飛び出しそうな勢いでビックリしてしまった。
<つづく>
ワイマールの想い出(映画編パート 1)
僕のホームページ内のGalleryの中に、ある一枚の“映画出演”の時の写真がある。一体どうして僕が映画なんかに出演することになったのか?疑問の声もあちらこちらで聞こえ始めたので(え!?誰も言ってないって?)、お話致しましょう。
事の成り行きはこうだった。
あれは僕がワイマールに来て間もない頃、たしか7年前の10月だったと思う。
いつものようにお昼をワイマール建築大学の横の建物二階にあるMENSA(大学学生食堂)で食べて、一階にある喫茶コーナーでまたまたいつものようにコーヒーを飲み、そしていつものように友人達と日本語の会話に夢中になっているときだった。
僕はこの悪評高いMENSAが大好きで、人は口々に「うぇ!そんなまずい飯よく食えるな・・・・・」というけれど、僕は毎日のようにそれでも通い続けた。
僕がMENSAが好きだった理由は、
1:安い
2:早い
3:まずい・・・いや、おいしい時もある!
であったが、一番の理由は、なんといっても“日本語”で会話が出来る環境があることだった。
行けば必ず、もうすでに昼食を食べ終わり、一階の喫茶コーナーでタバコをふかし、退屈そうな顔をして他の日本人達のために席を確保してくれているT君がいた。
僕らは別々のところに住んでいたし、別にいつも約束をしていたわけではないのに、ここへ来るといつも決まったメンバーが顔をそろえ、いつも決まった時間まで日本語でしゃべり続け、お互いまた何の約束もせず、それぞれの練習へと向かっていくのであった。
僕はそんな毎日がなんだかとても好きだった。
事件(おっと、また大袈裟な・・)はそんなたわいもない日常の中で起きた。
<つづく>
事の成り行きはこうだった。
あれは僕がワイマールに来て間もない頃、たしか7年前の10月だったと思う。
いつものようにお昼をワイマール建築大学の横の建物二階にあるMENSA(大学学生食堂)で食べて、一階にある喫茶コーナーでまたまたいつものようにコーヒーを飲み、そしていつものように友人達と日本語の会話に夢中になっているときだった。
僕はこの悪評高いMENSAが大好きで、人は口々に「うぇ!そんなまずい飯よく食えるな・・・・・」というけれど、僕は毎日のようにそれでも通い続けた。
僕がMENSAが好きだった理由は、
1:安い
2:早い
3:まずい・・・いや、おいしい時もある!
であったが、一番の理由は、なんといっても“日本語”で会話が出来る環境があることだった。
行けば必ず、もうすでに昼食を食べ終わり、一階の喫茶コーナーでタバコをふかし、退屈そうな顔をして他の日本人達のために席を確保してくれているT君がいた。
僕らは別々のところに住んでいたし、別にいつも約束をしていたわけではないのに、ここへ来るといつも決まったメンバーが顔をそろえ、いつも決まった時間まで日本語でしゃべり続け、お互いまた何の約束もせず、それぞれの練習へと向かっていくのであった。
僕はそんな毎日がなんだかとても好きだった。
事件(おっと、また大袈裟な・・)はそんなたわいもない日常の中で起きた。
<つづく>